四半世紀かかった全ての茶番劇にさようなら【完全版】※明確なネタバレあり

ヤフー映画レビューに投稿したのだが文字制限でかなり削ってしまったので「完全版」をこちらにアップしておく。中身は基本、ヤフーと一緒です。

 

【以下、本文】

 

色々と迷ったのですが、「レビューを書いたほうが気持ち的にケジメがつけれると」と思ったので、エヴァンゲリオンと言う作品と「キッチリさよなら」する為に雑筆ながら感想を書かせて貰います。

当方、旧劇場版が終わった時点で「エヴァ」ファンでも「庵野監督」でも無いので、その点を大きく踏まえて頂き御覧ください。明確に言うと「アンチ」です。大ファンの方が多いようですし、アンチの意見も少しは有っても良いかなと思っております。

冒頭、「より深くて精密な考察」は閲覧数が多い方を中心に他の方々が散々とやれていますし、私自身細かく作品を隅から隅まで分解するような事はしないので私にとってのエヴァンゲリオン(シリーズ)が何だったのかを書かせて頂こうと思います。

余談ですが観賞は4月15日であり、半月ばかりかけ私なりに色々と考えを纏めつつ書いております。

まず、一番驚いたのが「広げすぎてどうにも成らない状態に陥っていた風呂敷(ストーリー)を(それでもかなり相当グチャグチャですが一応)畳んだ」事です。
正直、もうどうにも成らず本当に意味が分からない謎だけを量産して放り投げるかと思っていました。
まさか本作で「説明(解答)」をするシーンが出てくるとは夢々、思ってもいませんでした。

主人公を軸にしつつ、1人ずつキャラクターを退場させて行く手法は決して珍しくなく、寧ろ王道的な構成に近いと感じました。と言うか、もうするしか一応でも纏める方法が無かったのでしょう。だから、最終作たる本作にして一番「エヴァンゲリオン」ぽくない話や演出になっていると残念がるファンの方も居られるのでしょう。しかし、もしかしたら本来はこのゴールを目指して庵野氏はTV版を作ったのかも知れません。だとしたら26話で纏められる内容なわけ無く、10倍の260話使っても足りたかどうか懐疑的に成るぐらいに無駄に細い設定を入れ込みすぎたと感じます。

最後の最後に来て明瞭になったのが
碇シンジの親父(ゲンドウ)の配偶者に会いたいと言う”しょーもない一途で個人的な願望”」で世界を滅亡させ、自ら神となり新世界的な物を構築しようとした。その為に、周囲の人間は勿論、自分の息子でさえ捨て駒として使おうとした。ゲンドウの幼少期からユイに会うまでの展開を追っていくと「何処まで行っても奥さんが救世主(神たる存在)」であり、その救いの神を希求し心底に貪欲なまでに計画を実行しようとした。ゲンドウの自己中劇場極まれリです。

監督の好きな「シン」という言葉を代入するなら、碇シンジというブラフ的な主人公を置いて視線と視点を集約させながら、実は”シン”主人公はゲンドウ君だった・・・何ともお粗末なオチとしか言い様が無い。

確かに碇シンジ庵野秀明であり、碇ゲンドウ庵野氏の親父さんと言う図式はなるほど、そうなのだろうと思います。身勝手で自己中心的なクソ親父に振り回されて苦悩に苦悩を重ねた少年期のヒデアキ君を描いた壮大な「自伝的な家族劇場」がエヴァンゲリオンという器の中身だったのだろうと推察しております。

1つ1つの有名な台詞も幼き頃の碇ヒデアキ君が本当に嘆いた言葉なのかも知れません。

テレビ版の第26話で意味不明(個人の主観です)な最終回を迎え、旧劇場版も遅延を重ねた末に本当に「気持ち悪い」終わり方をしました。
それが「エヴァンゲリオン」と言う作品だと思っていました。
何処までも「陰鬱で苦悩し罵倒し攻め責めぎあっては対峙し続ける負の円環」それがエヴァンゲリオンと言う胸糞悪い最悪の作品でした。
登場する男はみんな冷淡で、登場する女はみんな凶暴でとにかく救いようのない、それがエヴァンゲリオンでした。

そう考えると、メンヘル状態の碇シンジ君に対し異様と言っても過言では無いぐらいに温かく・柔らかく接してくるかつてのトウジ・ケンスケなどの同級生たちや不器用ながらも愛情?を乱暴ながら見せる眼帯アスカ。そして、主人公に対し責め苦言が多かったミサト達の「大人としての責任の全うシーン」は今までの全ての物語を覆すような演出だと言えるかも知れません。
人工物であった綾波アヤナミ)を農家のおばちゃん達に柔和に接しさせた演出も、アヤナミという登場人物に対する監督からの贖罪だったのかも知れません。
アスカにはケンスケという大きな「承認者」を得て、人間らしい幸福を与えたのも同様に。

この壮大でクソみたいな親子の物語に終止符を打つ為に碇シンジたる庵野ヒデアキ君が原作者として監督として登場人物として最後に立ち上がり、一人一人を救済してを繰り返しては「二度と開かないシャッター」をガラガラさせ「完全閉店」である事を誇張させた。そう、この物語はようやく本当にオシマイなのである。

模造の町(舞台)はエヴァに乗った庵野親子(シンジとゲンドウ)によってぶっ壊され、舞台裏も見えるぐらいに破壊し尽くしました。
クソ見たいな親父と会話を重ね、シンジは父親の罪を許しその存在を受け入れました。
必要が無くなったエヴァと言う機体達は1つ残らず「セカイ」から消し去りました。

こうして、全てに蹴りをつけて海を眺めるヒデアキ君はまた1人ボッチになりました。

でも、海の中から最後のエヴァ機に乗った奥さんがヒデアキ君を迎えに来たのです。

こうして孤独な少年のままだったヒデアキ君は遂に大人となって奥さんと一緒にバージンロード(駅の階段)を駆け上がって行きました。

最後の最後で途方もなく長い親子の三文芝居劇に巻き込んでしまった(観客を含める)全ての人々に対する贖罪たる作品がこのシン・ヱヴァンゲリヲン完結編だったのだと私は思っています。

本当に「さよなら」したかったのは観客以上に庵野氏自身なのかも知れません。

冥府に送ったキャラが戻る事はありません。
シャッターで完全閉店させたキャラはこの舞台に立つ事は二度とありません。
碇ヒデアキ君はエヴァンゲリオンと完全にさよならし、今生の限り創ることはありません。

だから、「さよなら全てのエヴァンゲリオン」なのだと思います。

TV版を観てしまった不幸な方が居たと推察します。
旧劇を観てしまった私は不幸でした。
エヴァQ(新劇第3作目)を知らずに偶然に観てしまった不幸な方も居た可能性はあるかと思われます。

でも、その私達のしょうもない茶番に付き合った不幸も終わったのです。

本当に「劇」は「終」わりなのです。


もし、「話題になってるから・・」とこの完結編を最初に観て、TV版や旧劇場版を観ようと思ってる方が居たら(アンチの1人として)お節介は十ニ分に承知で良いたい。

「絶対にお止めなさい。この作品の全てはこの完結編1作で全部終わっていますから」と。

最終作まで作って完走した事。
グッチャグチャながらも(一応)風呂敷を畳んだこと。

この2点を踏まえ旧劇の☆0から☆3(本音は2.8位)をつけさせて頂きました。


さようなら、全てのエヴァンゲリオン

そして

さようなら、庵野秀明さん。